女性初の判事であったみぶちよしこ(三淵嘉子)さん
日本初の女性弁護士・女性初の判事・家庭裁判所長として活躍したため、朝ドラのモデルとなった三淵嘉子さん。
今回はみぶちよしこ(三淵嘉子)の夫の死因の病気は何?再婚相手や子供も調査!
という事で、みぶちよしこさんの結婚について情報をまとめました。
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みぶちよしこ(三淵嘉子)の夫の死因の病気は何?
三淵嘉子さんは1941年に最初の結婚をします。
入籍日は1941年11月5日。
結婚相手は三淵さんの実家で書生として暮らしていた和田芳夫さんだとわかっています。
和田さんは、明治大学を卒業してからは東洋モスリンという紡織会社に勤めていました。
和田さんは、肺が悪く1年ほど療養生活を送っていたといいます。
太平洋戦争が始まり、30歳近い男性に招集がかかりますが肺の病気を患ったことがある和田さんは、免れていました。
2度招集を免れましたが、1945年の招集により出兵。
和田さんは招集先の上海で発病し、終戦後1946年帰国しますが長崎の病院で亡くなりました。
みぶちよしこ(三淵嘉子)の再婚相手は裁判官!
みぶちよしこさんは和田さんの死から10年後に三淵乾太郎さんと再婚。
裁判官の家庭に生まれ育った乾太郎さんは、現在の東大法学部を卒業し、司法省に入りました。
顔画像はこちら!
みぶちよしこと三淵乾太郎さんの出会い、馴れ初めは?
みぶちよしこさんと乾太郎さんの馴れ初めは、職場恋愛だったと言います。
裁判官として生活をスタートしたよしこさんは、名古屋から東京へ異動になりました。
乾太郎さんはよしこさんの帰宅時間に合わせて度々判事室を訪れては、連れたって帰っていったそうです。
きっかけは、よしこさんの恩師が乾太郎さんのお父様三淵忠彦さんでした。
よしこさんは、三淵忠彦さんの民法本の改定作業を手伝っていた過去があり、忠彦さんが亡くなったと聞いて三淵家に弔問で訪れた時に乾太郎さんと出会ったのではないかと言われています。
乾太郎さんの方からよしこさんに惚れ込み、自然と交際に発展。
乾太郎さんは1年前に妻を病気で亡くしていました。
お互い連れ合いを亡くした者同士、気が合う部分があったのかもしれません。
そして1956年8月、乾太郎さん49歳、よしこさん41歳の時に再婚しました。
お互い転勤がある仕事とわかった上での結婚でしたので、すれ違いの生活を送っていた二人。
よしこさん自身も忙しいのに、忙しくしている夫の健康を気遣いゴルフをするように提案し、自身も覚えてゴルフに励んでいたんだとか。
乾太郎さんが退官してからは、毎週日曜にお寺参りをするようになった二人。
よしこさんは乾太郎さんの健康を常に祈っていたといいます。
よしこさんの退官後からは自由な時間が増えていきましたが、この頃から乾太郎さんの体調が悪くなります。
歩行困難となった乾太郎さんでしたが、よしこさんの献身的な支えもあって回復していったそうです。
ラブラブな生活を送っていましたが、よしこさんが68歳の時に骨肉腫が発覚し、翌年他界。
その1年後に乾太郎さんも亡くなりました。
仲睦まじい夫婦と評判だったとおり、楽しく幸せな結婚生活を送っていたんですね。
みぶちよしこ(三淵嘉子)の子供も調査!
みぶちよしこさんと乾太郎さんの間に子供はいません。
よしこさんは1943年1月に1番目の夫、和田さんの間に長男「芳武さん」を出産しています。
顔画像は、見つけることができませんでした。
乾太郎さんは前妻の間に子どもが4人いましたので、再婚して5人のお母さんになったよしこさん。
芳武さんは再婚当時13歳、実の父の姓「和田芳武」と名乗っていたそうです。
お顔立ちもお父様に似ていたんだとか。
乾太郎さんの娘さんは「父は恋愛至上主義」だったと言っていました。
お母様を亡くされわずか1年で、よしこさんに夢中になっているお父さまをみて「パパがいいなら、いいよ」と再婚に賛成したと後にインタビューで明かしていました。
お子さまから見ても、乾太郎さんはよしこさんに夢中だったのですね。
まとめ
今回はみぶちよしこ(三淵嘉子)の夫の死因の病気は何?再婚相手や子供も調査!についての記事をお届けしました。
- みぶちよしこの夫は招集先の上海で発病し、帰国後に亡くなっている
- みぶちよしこと三淵乾太郎は職場恋愛
- お二人の間に子どもはいない
以上の内容がわかりました。
最後までお読みいただきありがとうございました。