料理研究家の栗原はるみ(くりはらはるみ)さん。
大ヒット料理本の出版の他、台所用品のプロデュースも展開。多くの「ハルミスト」から絶大な支持を得る料理家さんです。
今回は栗原はるみの夫・玲児の顔写真は?死因は肺癌で、息子の事故の噂も調査
という事で、栗原はるみさんの旦那さん、息子さんについて情報をまとめました。
栗原はるみの夫・玲児の経歴や馴れ初めを調査!
栗原はるみさんと玲児さんは1973年に結婚しています。
具体的な入籍日はわかっていません。
まずは栗原はるみさんの結婚相手についてわかっている情報を見ていきましょう。
栗原はるみの夫・玲児の経歴は?
栗原はるみさんの夫は、元タレントでアナウンサーの栗原玲児(くりはられいじ)さん。
栗原玲児さんプロフィール
- 栗原 玲児(くりはら れいじ)
- 1933年8月16日~2019年8月3日(享年85歳)
- 静岡県出身
- 慶應義塾大学卒業文学部中国文学科卒業
栗原玲児さんはNHKアナウンサーとして活躍していました。
高校生の頃は、生徒会長を務め、弁論の上手い学生として有名だったそうです。
聖学院高等学校の後輩で、元NHKアナウンサーだった西田義夫さんによれば、
演説が抜群に上手で、生徒会に対して否定的な意見を持つ生徒ですら拍手を送ってしまう程だった
と、当時の様子をコメントしています。
現代の高校生は、昔と比べたら話し方も変わっているだろうけど、栗原さんを越える話術は聞いたことがない
とも述べており、栗原玲児さんの技術を絶賛しています。
社会人となってからは、アナウンサー・キャスターとして活躍します。
- テレビ朝日の「モーニングショー」第1期(1964年4月~1968年3月)のサブキャスター
- フジテレビのトーク番組「スター千一夜」(1966年~199年)
- 情報番組の番組司会者
- 映画評論家
結婚後、栗原玲児さんは芸能界を引退し、実業家へと転身。
当時の民主党から参議院選挙に出馬し、落選するという経験もありました。
結婚当初は、専業主婦だった栗原はるみさん。
落選により家計が苦しくなるなか、少ない材料で美味しい料理を作る工夫をしていたそうです。
料理家・栗原はるみのプロデューサー
長年、第一線で活躍し、バリバリと仕事をする自立した女性のような印象を受ける栗原はるみさん。
もともとは、そんな印象とは程遠く、むしろ夫に依存して生きてきた人間だといいます。
喧嘩は対等にするけれど、夫が嫌がることはしないと固く心に決めていたという栗原はるみさん。
夫にだけは嫌われたくない、私が妻でよかったと思ってもらいたかった
古風な母に育てられた26歳の栗原はるみさんは、仕事で帰宅の遅くなる夫を寝ずに待っていました。
ところが、そんな妻をみた栗原玲児さんは
僕の帰りを待っているだけの女性にならないで
と栗原はるみさんに、自分の道を探すように背中を押しました。
自分の世界を持ちなさい。君は僕があれこれ言わないと行動を起こせない。自分で物事を考え、何でもできないとダメだよ
栗原玲児さんの死後、遺品の中に当時のはるみさんが玲児さんへ書いた手紙を見つけます。
料理について、自分に何ができるか考えます
こうして、栗原はるみさんは、料理番組の裏方の仕事を始めることになったのです。
もともと料理が好きだった栗原はるみさんは、その実力を評価され、創刊したばかりの女性誌から記事のオファーを受けます。
そして、誌面に掲載された「サバのそぼろ」が大好評で、料理家の道が開けたのです。
1992年に出版された代表作『ごちそうさまが、ききたくて。』が大ヒット。
1994年には栗原玲児さんがプロデューサーのような立場で取締役を務め、「ゆとりの空間」を起業。
玲児さんがはるみさんの右腕となり、仕事上のサポートだけでなく
- 買い出しは2人で出かけ、洋食は玲児さんから習った
- 毎朝玲児さんが作る朝食を一緒にとる
など、公私ともに時間を共有してきました。
また、玲児さんは非常に厳しい批評家で、口癖は
厳しいことは僕にしか言えないだろう
「ちょっと違うんじゃない?」「こんなことをやっていたら駄目だ」「おいしくない」と言われるのは日常茶飯事
考案したレシピを世に出すかどうか、玲児さんの反応を見て決めたといっても過言ではないそうです。
栗原はるみ・玲児夫妻の馴れ初めは?
おふたりの出会いは、栗原はるみさんの実家がある静岡県下田市でした。
栗原はるみさんが21歳の時に栗原玲児さんと出会い、5年後の26歳の頃に結婚しています。
後述しますが、お二人はほぼほぼ一目ぼれくらいの衝撃的な出会いでした。
その割に、結婚までに時間がかかったのは栗原はるみさんの母親が結婚に反対だったことがありました。
栗原はるみさんのご実家は下田で印刷屋を営んでおり、
- 温厚な父
- 料理好きな母
- ハンサムな兄
の4人家族。
みんな早起きで、毎朝、近くにあったお墓の掃除をして手を合わせる、そんな秩序に厳しい家でした。
大学で家を出ていましたが、長い休みの度に帰省、卒業後も実家に戻っていたくらいの仲良し家族。
実家にいると、周りは20歳くらいで結婚しているけれど、栗原はるみさんには結婚願望もなし。
はるみさんに甘かった父も「はるみは、結婚しなくていいよ」と言っていたそう。
そんなところに現れたのが、夫となる栗原玲児さんでした。
ではなぜ、ご両親は愛娘の結婚話に反対だったのか?…実は…
・栗原玲児さんは栗原はるみさんの14歳年上だった
・栗原玲児さんは離婚歴のあるバツイチだった
これは…のんびりとした田舎で生活しているご両親には、なかなか首を縦に触れない条件だったかもですね。
栗原玲児さんの前の結婚
栗原玲児さんは1964年に、「ラテンの女王」の異名を持つ坂本スミ子さんと結婚。
坂本スミ子さんプロフィール
- 1936年11月25日ー2021年1月23日(享年84歳)
- 大阪府大阪市東住吉区出身
- ラテン・歌謡曲の歌手、俳優
- 「夢であいましょう」の主題歌担当で一躍有名
- NHK紅白歌合戦に1961年から1965年まで5回連続出場
- 映画「楢山節考」の年老いた母親役を熱演。カンヌ国際映画祭最高賞を受賞
ですが、結婚生活は2年で破綻。
二人が同席で離婚会見を開きますが、その場で栗原玲児さんは
離婚は、坂本スミ子さんが一切家庭を顧みなかったことが原因
と説明し、坂本スミ子さんはほとんど口を開きませんでした。
が、翌日に坂本スミ子さん側が「栗原玲児さんがゲイであるため2人はセックスレス状態だった」と反論。
これに対して、栗原玲児さんはノーコメントでしたが、当時は衝撃が大きかったようです。
もしかしたら、この一連の騒動をはるみさんのご両親が承知していて、不安視していたのかもしれませんね。
結婚へとつづく衝撃的な出会い
実家のあった伊豆半島の下田は別荘地で、文化人、俳優などの芸能人が週末を過ごしにやってきていました。
栗原はるみさんは、兄の友人の別荘に招待され、その友人を介して玲児さんと知り合います。
そこから毎週、どこかの別荘で集まっては、顔を合わせるようになります。
はるみさんは、そこで毎回お母さん仕込みの和食を作っていたそうです。
この時の栗原はるみさんの印象を、玲児さんは
はるみを一目見た瞬間、新聞でくるんだ白菜のようなお嬢さんだなと思った。
肌の白さと瑞々しい精気、豊穣の予感と健やかさを一瞬のうちに見てとった。
と述べています…文学的ですが、要は「いいな」と思ったんですよね⁉
はるみさんは明るくて元気、料理もして、車も運転できる子という印象だったようです。
栗原はるみさんは、この出会いを
私は、和食しか知りませんでしたが、玲児さんと友人は洋食。
新しい世界を知りました。
カトラリーが並んだテーブルには、
- マッシュルーム入りのカレー
- 丸鶏のオーブン焼き
- ブルーベリーマフィン
- 彼がつくるビーフシチュー
おいしくて、おしゃれで…ひとつひとつに感動したんだそうです。
視点がちょっとズレてるような感じもしますが…それだけキラキラした世界の人だという衝撃だったんでしょうね。
惹かれ合ったふたりは、結婚を意識しますが、はるみさんのご両親は結婚に反対。
思いあまったはるみさんは、26歳のとき、玲児さんのもとに行くと決めて、下田の実家を飛び出します。
ところが14歳上の玲児さんは冷静な判断で、次の日に一緒に実家に戻りました。
玲児さんが「申し訳なかった」とはるみさんのご両親に謝り、それで二人の結婚を許してもらったそうです。
お二人の結婚式は、玲児さんが再婚だったため、
派手なことは避けたい
と希望し、両家と限られた友人だけの小さな式を挙げました。
ご両親は、反対する気持ちを持ち続けていたので、栗原はるみさんもお母さんも悲しくて泣いていたそうです。
なので、はるみさんは「自分の子供の結婚は、絶対に反対しない!」と決めていたんだとか。
子どもはすんなりと。対立が起こるような人を選ばなかった(笑)
それがなによりです(笑)
結婚当初は玲児さんのお母さんと同居していた栗原はるみさん。
お料理の基本は実のお母さんに教わったそうですが、玲児さんや玲児さんのお母さんからも学んでいたようです。
お義母さんは、明治生まれのハイカラな女性でした。
- 洋裁・料理が得意
- 読書と香水をたしなむ
- 洋館に住んでいる
- 部屋にキャンドルがかわいく飾ってある
そんなステキな女性が身近に居たら、お手本にしてセンスも磨かれていきますよね?
栗原はるみさんは
お義母さんが良い人でよかった
と感謝、嫁姑の関係も良好だったようですね。
そして、愛する旦那様・玲児さんは、何でも教えてくれる先生、そして恋人だったと語っています。
旦那ではなく恋人だった。ずっとそういう風に思わせてくれたことが、素晴らしいと思っています。
「外国人みたいな夫でした」と玲児さんのことを表現するはるみさん。
たしかに、「亭主の事より、自分の自由にいきろ」発言といい感覚が洗練されていた方なのかもしれません。
そんなご主人だったからこそ、実家を捨てる覚悟でも、飛びこんでいきたかったんですね。
栗原はるみの夫の死因は肺がん…
栗原はるみさんのご主人、栗原玲児さんは2019年に亡くなっています。
はるみさんから愛する夫を奪った原因はなんだったのでしょうか。
栗原はるみの夫の死因は?
栗原玲児さんは、2018年に肺がんがみつかっています。
きっかけは、ペースメーカーの定期健診でした。
病名は玲児さん本人に告知され、治療方針も玲児さんの希望で決めていったそうです。
玲児さんの終活
・延命治療は一切行わず、入院せずに最期まで自宅で過ごす
・戒名、死装束も手配
・葬式・告別式は近親者のみで行う
自宅は、以前から手すりの設置などバリアフリーに改装されていたそうです。
体調がいい時は、音楽鑑賞などに出掛けるなど好きなように過ごしていた玲児さん。
その静かな闘病生活が終わりを告げたのは、2019年8月3日のこと。
家族に看取られて、自宅で息を引き取ります。
享年85歳でした。
亡くなる1か月前は、寝たきり状態だったようですが、最期まで栗原はるみさんが介護したそうです。
そしてお葬式は、生前から希望通り、身内などのごく親しい少ない人数で栗原玲児さんを見送りました。
栗原玲児さんの死去に際して、多くの追悼の言葉と、同じくらいはるみさんを心配する声もありました。
脱け殻からの一歩
46年間連れ添った最愛の夫の死。
その喪失感は、栗原はるみさんの想像をはるかに超えていました。
眠れず、食欲がわかず、体重は5キロ減りました。
泣き過ぎて、自分の顔ではないみたいに変わってしまって。
一緒に食事していたシーンを思い出すから、と料理も作らなくなっていました。
そんな自分が嫌だ、頭ではわかっているのにそこから抜け出せない…
そんな時、長男の心平さんから
抜け殻みたい。おやじに依存していたんだね
と指摘され、精神的に依存していたことを初めて自覚したそうです。
終わりの見えない悲しみに中に、一筋の光が見えたのは、玲児さんが遺した手紙を見つけた時でした。
玲児さんが手帳にしたためた言葉は、栗原はるみさんへの愛と感謝に溢れていました。
はるみ様
心底からの感謝と尊敬、そして愛を申します。
君は常に努力の人です。いつも前を向き、決して手を抜かない。
今、君と初めて下田の海で出会った時を想い出しました。君は本当に可愛かった。そして今も可愛いよ。
玲児さんが遺していたメッセージの中でも、〈君は決して手を抜かない〉という言葉に
私は初めて私の料理家としての姿勢に「ベリーグッド!」をもらったような気がしました
厳しい批評家だった玲児さんは、なかなかほめてくれなかったそうです。
それでも、おいしい時には「ベリーグッド!」や「まこといい」の言葉でレシピにGOサインをくれました。
栗原はるみさんの中の「負けん気」を引き出すコツを玲児さんはよくご存じだったようですね。
自分がいなくなっても、遺された妻はこのメッセージを支えに元気で生きていける。
最期に渡すメッセージとして、きっとそう考えたんでしょう。
実際に、このあたたかい一つひとつの言葉が、栗原はるみさんが前を向いて生きる原動力になっています。
とはいえ、人間の心はそんなに簡単にはできていません。
元気にやっていこうと思い直せたのに、また悲しみ・寂しさにとらわれて身動きできなくなってしまう…
そんな繰り返しの毎日で、今でも仏壇の玲児さんの写真を正視できないでいるそうです。
ただ、玲児さんの遺した手紙を読んで、こんな強さが欲しいと感じた栗原はるみさんは、ある行動に。
ご自身のインスタに「#玲児さんありがとう」などのメッセージを送り始めました。
玲児さんに美味しいプリンのプレゼント。レモンティも一緒に。
これは、玲児さんに感謝の気持ちを込めているそうです。
そうやって自分の中に生きている玲児さんを感じることによって、心を保っているのかもしれませんね。
おわること、はじまること
栗原はるみさんは25年にわたって、『栗原はるみのすてきレシピ』『haru_mi』でレシピを提案してきました。
もともと100号を区切りに、定期的な雑誌の刊行はお休みする予定。
無事に達成した後は、いろいろなところへ出かけようと約束をしていました。
玲児さんは25年が終わるのをひたすら待って
- 九州を周遊する列車「ななつ星」
- ヨーロッパの船旅
などのパンフレットを取り寄せ、一緒に旅をするのを楽しみにしていたそうです。
ですが、それもかなわず…100号達成の前に、ひとりで旅立ってしまいました。
ふさぎ込んでいるはるみさんを心配して、心平さんは
何でもやりたいことを100個考えて。そうしたら全部実現するのに付き合ってあげる
お嫁さんが買って来くれた「人生でしたい100のことを書くノート」を書いてみる栗原はるみさん。
人生でしたいこと
・韓国語を学ぶ
・パソコンを学ぶ
・iPhoneを学ぶ
・きちんと睡眠がとれるすべてのことを見つける
・自分のベスト100曲を選ぶ
・佐野元春さんに会う などなど
佐野元春さんは、玲児さんが亡くなって、寂しさに落ち込んでいたとき、出演していたテレビをたまたま目にします。
佐野さんがインタビューに応える言葉、代表曲のひとつ「約束の橋」の歌詞、歌声、演奏…に引きこまれました。
今までの君はまちがいじゃない
これからの君はまちがいじゃない
「約束の橋」作詞・作曲:佐野元春
なにか、私の人生が変わるような予感さえしました
歌って、本当に不思議な力を感じる時がありますよね。
佐野元春さんには「haru_mi」最終号にゲスト出演され、「会う」という願いは実現しました。
そして、栗原はるみさんが「新しい一歩」を踏み出したのも、やはりお料理でした。
75歳のお誕生日の前日、3月4日に新しいパーソナルマガジン「栗原はるみ」を創刊。
講談社の役員の方が
75歳で雑誌を始めるって、なかなかないですよ
と驚かれたそうです。
創刊にあたって、はるみさんは「最愛の夫を失った寂しさに耐えられないつらい日々が今も続いている」としながらも
だけど、そんな私を見て、きっと玲児さんは「泣いている時間はないよ、もっともっと残された人生を楽しんで」と言うと思います
自分と同じ境遇で悩んで、泣いている人たちの力になれればいい…と思いついた栗原はるみさん。
やっぱり自分のために、自分が好きなものを作って、ちゃんと食べたい
そんな葛藤の中うまれたエッセイの連載が
自分のために、ひとりごはん。
この中で栗原はるみさんは「元気になれるかわからない。 でも、料理が前に進む力になればいい」とも。
やさしい時間の流れが少しずつ元気を、一歩動き出す力を与えてくれることを祈るばかりです。
栗原はるみの息子の事故の噂は本当?
栗原はるみさん、玲児さん夫婦の長男は、同じく料理家の栗原心平(くりはらしんぺい)さんです。
栗原心平さんプロフィール
- 1978年11月20日うまれ(46歳)
- 静岡県下田市出身
- 和光大学卒業
- 「ゆとりの空間」代表取締役
- 2003年に結婚した妻は、元「ゆとりの空間」社員
- 既婚 息子1人
まず、栗原心平さんの事故…というのは間違いで、心平さんは事故を起こしてはいません。
おそらく同じ親子料理研究家のケンタロウさんと情報が錯そうしていると思われます。
それでは、そもそものケンタロウさんの事故からみていきましょう。
ケンタロウさんの交通事故
ケンタロウさんも、心平さんと同じく有名料理家・小林カツ代さんを母に持つ料理研究家です。
左がお母さんの小林カツ代さん、右がケンタロウさんですね。
売れっ子だった小林カツ代さんは、2005年にクモ膜下出血を発症して一線を退きます。
そして2008年からテレビ東京系列での放送された「太一×ケンタロウ 男子ごはん」でケンタロウさんも人気者に。
ところが、ケンタロウさんは2012年2月に単独のバイク事故で、両足骨折と頭蓋骨骨折という重傷を負うことに…。
首都高速道路のカーブを曲がりきれず、高架から約6メートル下の道路に転落するという大事故でした。
両手足が麻痺して、高次脳機能障害が残ったんだって…
高次脳機能障害とは
・手足が動かない
・食べ物を咀嚼できない
・しゃべれない
・記憶が曖昧
脳が損傷し、知的機能に障害が生じた状態
ケンタロウさんのお姉さんの証言によると、飲酒やスピード違反のようなことはなかったそうです。
事故が起きたのが2月…時間帯や天候から路面が凍結していたのでは…という見方もあるようです。
栗原はるみさんとケンタロウさん
栗原家と小林家は同じ「料理一家」として、以前から交流があったようです。
2009年4月から、情報番組「スッキリ!!」内のコーナー、「はるみキッチン」月1ゲストとしてケンタロウさんが参加。
栗原はるみさんは、ケンタロウさんのことを
もうひとりの息子のような存在
と公言していました。
この点からも、「栗原はるみの息子が事故」という誤解に信ぴょう性が出てしまったのかもしれませんね。
そんな、「息子」が介護中の母を抱えたまま大事故に遭遇…
この「小林家の一大事」に
自分が何か小林家にできることはないか
そう考え抜いた栗原はるみさんは「男子ごはん」に2度ゲスト出演。
ケンタロウさんにまた食べてもらう日が来ることを願って、彼の大好きな「唐揚げ」をつくりました。
そして、ケンタロウさんが戻ってくるまでの後任という条件付きで栗原心平さんにバトンタッチします。
テレビに出ることがあまりなかった心平さんは、オファーを受けるかどうか、迷いがあったそうです。
そんな心平さんに、栗原はるみさんが
ケンタロウくんが戻ってくるまでという気持ちでやってみたら
と声をかけ、決断の後押しをしたのではないか…と言われています。
ケンタロウさんから心平さんへ
2012年8月から、ケンタロウさんの復帰までの代役として、栗原心平さんが「男子ごはん」新レギュラーへ。
最初はなれないテレビ番組に、固さのあった栗原心平さん。
控えめな性格である心平さんを、MCの国分太一さんが「しんぺいちゃん!」と呼んでサポートします。
いじられキャラから、だんだん番組の顔として「愛されキャラ」が定着してきました。
闘病中のケンタロウさんも驚異的な回復力を見せ、番組の10周年にはメッセージを寄せています。
太一くん、心平ちゃん、男子ごはんのスタッフの皆様10周年おめでとうございます。勝手に事故ってごめん。
気がついたら6年もたっちゃったけど、残念ながらまだ短パン男子にチューニングが合っていないんだ
メッセージの中で、国分太一さんには
太一くん10年間ありがとう
心平さんには
心平ちゃん途中からごめんね
と感謝と謝罪の気持ちも表現されていました。
そして、メッセージ中にチューニングが合ってないとありましたが
当時、茨城県にあるリハビリ施設に通って、1日8時間もトレーニングしていたそうです。
その施設では、医師、栄養士、歯科医、作業療法士、理学療法士などがチームを組んでリハビリに取り組むのだそう。
なにより、本人のやる気がなければ続けられない大変なトレーニング。
ケンタロウさんは、「諦めない人の乗る車椅子」と呼ばれるペダル付きのリハビリ車椅子を使っているとか。
10周年の際にMCの国分太一さんは
今後ともケンタロウさんと一緒に、3人で頑張っていくのでよろしくお願いします
と番組を結びました。
いつの日か、栗原はるみさんの〝ふたりの息子〟と国分太一さんでお届けする「男子ごはん」。
この放送を見るのを一番楽しみにしているのは、栗原はるみさんかもしれませんね!
まとめ
今回は栗原はるみの夫・玲児の顔写真は?死因は肺癌で、息子の事故の噂も調査!
という事で、栗原はるみさんの旦那さん、そして旦那さんの死因と息子さんの事故ついての記事をお届けしました。
- 栗原はるみさんと元・キャスターの夫 栗原玲児さんは、いつまでも恋人同士のような年の差夫婦でした
- 栗原はるみさんの夫、玲児さんの死因は肺癌。脱け殻のようになったはるみさんを支えたのは、夫の愛でした
- 栗原はるみさんの息子がおこした事故は、長男・心平さんではなく、「息子のようにかわいがった」ケンタロウさんの単独バイク事故でした
以上の内容がわかりました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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