加藤登紀子の夫の死因は癌!再婚相手や旦那との娘や息子など子供もまとめた!

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歌手や女優として活動する加藤登紀子(かとうときこ)さん。

学生運動指導者の藤本敏夫を夫(旦那)に持つ歌手の加藤登紀子
出典:https://www.youtube.com/

民主的な活動家としても有名ですよね。

そんな加藤登紀子さんの夫は同じ時代を駆け抜けた藤本敏夫さん。

今回は加藤登紀子の夫の死因は癌!再婚相手や元旦那との娘や息子もまとめた!

という事で、加藤登紀子さんの夫、藤本敏夫さんの死因や再婚、子供についても調べました。

目次

加藤登紀子の結婚まとめ!

加藤登紀子は獄中婚!

加藤登紀子さんが結婚したのは1972年。

29歳の時でした。

結婚相手の夫は学生運動指導者として活動していた藤本敏夫(ふじもととしお)さん。

加藤登紀子の夫(旦那)の藤本敏夫
出典:https://www.daichi-m.co.jp/

結婚当時、藤本敏夫さんは刑務所に収監されており、なんと加藤登紀子さんと藤本敏夫さんは

獄中婚

で結婚されているんです。

中々衝撃的なワードの「獄中婚」ですよね。

加藤登紀子さんの夫、藤本敏夫さんは何の罪で刑務所に入っていたんでしょうか?

というか、夫の藤本敏夫さんはそもそもどんな人間なんでしょうか?

詳しく調べてみました。

加藤登紀子の結婚相手の夫(旦那)・藤本敏夫はどんな人?

藤本敏夫は学生運動指導者

加藤登紀子さんの夫、藤本敏夫さんは関西出身。

兵庫県立鳴尾高等学校を卒業後、同志社大学に進学されています。

元々は新聞記者を志しており、同志社大学では新聞部に入部。

しかし、この新聞部が裏では学生運動を活発に行う組織だったんだとか…

大学2年生の時にデモ行動に参加した藤本敏夫さん。

その後、1967年の「羽田闘争」にも参加。

どんどん左翼に傾倒していったそうです。

羽田闘争とは?

新左翼が単独で起こした初の暴力デモであり、60年安保闘争での樺美智子以来となる死者を出しながら新左翼と機動隊の間で激しい攻防が行われる大事件

こちらが当時学生運動の指導者をされていた時代の藤本敏夫さんの顔画像

加藤登紀子の夫(旦那)の藤本敏夫の若い頃

俳優と言われても違和感が無いくらいの精悍さですよね。

1968年には反帝全学連の委員長に就任。

当時は連合赤軍との関わりも疑われ、警察からは常にマークされていた状態だったんだとか…

連合赤軍とは?

1971年から1972年にかけて活動した日本の極左テロ組織、新左翼組織の1つ

ひええ…

そんな感じで過激な活動も行っていた藤本敏夫さん。

1968年には「国際反戦デー防衛庁抗議行動」に参加した事を理由に逮捕。(1969年に釈放)

そして、1972年には公務執行妨害で再び逮捕されています。

加藤登紀子さんが藤本敏夫さんと獄中婚をされたのが、この2度目の逮捕の時ですね。

当時の時代もあるんでしょうが、学生運動にのめり込み、逮捕されてしまうような過激な活動もしていた藤本敏夫さん。

そんな藤本さんを加藤登紀子さんが夫に選んだ理由は何だったんでしょうか…?

それを探るために、2人の馴れ初めについても調べてみました。

加藤登紀子と夫、藤本敏夫の馴れ初めは?

加藤登紀子と夫の馴れ初めは学生運動

加藤登紀子さんと夫の藤本敏夫さんが出会ったのは大学時代。

当時の加藤登紀子さんは東京大学在学中に歌手デビューを果たし、世間からは注目を集めていた時代です。

ただ、ご存知の方も多いように、加藤登紀子さん自身も学生時代は学生運動に積極的に参加されていた方なんですよね。

高校時代には当時所属していた放送部の仲間達と「60年安保」のデモ活動に参加。(因みに、放送部の1年後輩にはあの吉永小百合さんもいたんだとか…!)

東大に入ったのも、学生運動家の樺美智子さんがデモ活動で命を落とした事がきっかけだったそうです。

これをきっかけに『樺さんの後を継ぐためにも東大に入ろう』と思うようになります

引用:日経新聞(加藤登紀子 ヤマ当たった東大受験「合格はまぐれ」より)

樺美智子さんがなくなった翌日にはその事件をニュース原稿にし、校内放送で流したというから相当な熱意ですよね。

ただ、実際に大学に入った後は学生運動とは距離を置いていたそうです。

そんな加藤登紀子さんと夫の藤本敏夫さんを繋げたのもやはり学生運動でした。

当時としては珍しい現役大学生での歌手デビュー。

しかも東大生として世間からは注目されていた加藤登紀子さん。

2年間の留年後に東大を卒業されるんですが、卒業式にはこちらも当時としてはとても珍しいジーパン姿で参列されたそうです。

そんな加藤登紀子さんの姿は週刊誌で記事として取り上げられたんだとか…

記事を見た夫の藤本敏夫さんが加藤登紀子さんを気に入り、

学生運動の集会歌を歌って欲しい

とオファーをしたそうです。

【出会った頃の加藤登紀子と藤本敏夫】

若い頃の加藤登紀子と夫(旦那)の藤本敏夫

ただ前述の通り、その頃は学生運動の熱が冷めていた加藤登紀子さん。

自分の歌を政治的な事に使われたくは無い

と話を断ったそうなんですが…

その3日後、藤本敏夫さんから個人的な連絡が来て、なんやかんやで2人は恋に落ちたそうです。

そのなんやかんやが気になる…!

その後交際が始まった2人ですが、前述の通り1972年に藤本敏夫さんが公務執行妨害で逮捕。

3年8ヶ月という実刑判決を受けます。

加藤登紀子さんが藤本敏夫さんとの結婚を決断したのはまさにその時。

藤本さんが刑務所に入る前に、加藤登紀子さんの方から

結婚しよう

と告げたそうです。

彼が(刑務所に)入ることになったとき、結婚しようと私から言ったの

引用:テレ朝POST(“獄中結婚”に「両親は大賛成だった」加藤登紀子、大和田獏に結婚の裏側を明かすより)

当然、加藤登紀子さんの周囲の人間は結婚に猛反対。

夫の藤本敏夫さんも、これから4年近くの服役を控えているという事で加藤登紀子さんからのプロポーズを断ったそうです。

しかし、その後に加藤登紀子さんの妊娠が判明。

お腹の子供の父親はもちろん藤本敏夫さんでした。

加藤登紀子さんの両親が結婚の後押しをしてくれた事もあり、結局は加藤登紀子さんが押し切る形で獄中婚をされています。

「両親は大賛成だった」と獄中結婚した裏側を明かす

引用:テレ朝POST(“獄中結婚”に「両親は大賛成だった」加藤登紀子、大和田獏に結婚の裏側を明かすより)

恐らくですが、加藤登紀子さんのご両親も学生運動など、いわゆる「左より」の考えに理解がある方だったんでしょうね。

そんな馴れ初めの後、獄中婚をした加藤登紀子さんと藤本敏夫さん。

藤本さんが2度目の逮捕後の懲役を終え、刑務所から復帰した時には学生運動そのものが下火になっていました。

藤本敏夫さんは活動から身を引き、1976年には藤田和芳さんと共に「大地を守る会」を設立。

また、1981年には農事組合法人自然生態農場「鴨川自然王国」を設立。

1991年には農林水産省関東農政局の諮問委員に就任するなど、その人生を日本の一次産業、特に農業を守り、発展させていくという活動に力を注がれています。

若い頃は過激な活動をされていた藤本敏夫さんですが、それも

日本を愛し、守りたい

という気持ちが強かったからこそ、なんでしょうね。

きっと、そんな日本を想う気持ちに加藤登紀子さんも惹かれたのではないでしょうか。

加藤登紀子と結婚相手の夫(旦那)の死因は癌!

加藤登紀子の夫・藤本敏夫の死因は肝臓ガン

加藤登紀子さんの夫、藤本敏夫さんが永眠されたのは2002年7月31日。

直接の死因は肝臓ガン闘病中の肺炎です。

去る7月31日午後3時、鴨川自然王国代表・藤本敏 夫さんが、肺炎のため亡くなりました。

引用:農文協公式HP(藤本敏夫さんの死を悼むより)

無くなる1年前に「肝臓がん」が判明し、友人の意志からは

余命1年

と宣告されていた藤本敏夫さん。

その後も入退院を繰り返しながらも書類用の原稿を書いたり、仕事の指示を出したり、と忙しく過ごしていたそうです。

そして、そんな中でも新しい治療法を模索し続け、最後まで「生きること」を諦めていなかったんだとか。

しかし、加藤登紀子さんが新曲のレコーディング中、藤本敏夫さんが肺炎にかかり容態が急変。

すぐに病院に駆けつけた加藤登紀子さんですが、既に藤本敏夫さんの血中酸素飽和度はかなり低下していたそうです。

一晩中夫の藤本敏夫さんに寄り添った加藤登紀子さんですが、翌朝親族が揃ったのを見ると

もういいだろう

と、酸素マスクを外し…

藤本敏夫さんは家族、親族に見守られながら最後を迎えたそうです。

 そして翌朝、親族がそろったのを見ると「もういいだろう」と酸素マスクを外し、藤本さんは家族に見守られながら最期を迎えた。

引用:介護ポストセブン(加藤登紀子さんが明かす「夫を失った寂しさを癒してくれたみそ汁と鴨川の暮らし」より)

享年58歳、あまりにも早すぎるお別れですよね…

ただ、無くなる2ヶ月前に取られたという写真では藤本敏夫さんはとても穏やかな顔をされているんです。

激動の人生を駆け抜けた藤本敏夫さん、今は安らかに眠っておられるんでしょうね…

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